出会い

11月初旬、家に帰ったら薄墨の封筒がテーブルの上に置いてあった。

 

「竹内…まさか……。」

 

竹内さんが1025日、75才を目前に亡くなったとの事だった。

 

うかつだった。

 

まったく頭になかった。

 

今年の初旬、作品が掲載された雑誌をお送りし、その返事のTELが最後の会話だった。

本当に元気だったのに…。

「等々力の現場から私の家はすぐなので、たまに寄ってよ。」

「わかりました、寄らせていただきます。」

 

それが今日である。

 

一体何をやってるんだ。

 

週一回は現場に行っている。

いつも頭によぎる。

それが一度も伺ってない。

一度会いたかった。

話をしたかった。

 

いつでも会えるという思いで今日まで来た―――。

 

 

竹内さんとは約30年前からの知り合いである。

当時、水沢工務店の設計部長さんで、本当にかわいがっていただいた。

最後は役員をやられていた。

「○○邸が竣工したので見に来ない?」

「○○の現場に行くけど一緒に行く?」

「車屋の模型ができたので会社に来いよ。それから久しぶりに一杯やろう。」

ゴルフもやった。

奥様の実家がある弘前に、桜満開の頃連れて行ってもらった。

 

あまり食えなかった私の事務所に仕事をたくさんいただいた。

何よりも建築を教えていただいた。

スマートな方だった。

シャイな方だった。

多趣味な方だった。

11つの言葉に存在感があった。

 

 

1113日、南雪谷の竹内邸におじゃますると奥様が迎えてくれた。

突然のことだったとのこと。

多発性のガンで手術が出来なかったらしい。

2人の子供、4人の孫に見守られてスーっと逝ったとのことだった。

遺骨と遺影の横に趣味のウクレレがおいてあった。

遺影に手を合わせていると、後で奥様が今までのいろんな事を話された。

 

 

泣いた。

 

 

20年位前に竹内さんとパリに一緒に行った。

発注者がパリ在住の方で、「契約はパリでやりましょう。旅行がてらにいらっしゃいよ。」

との誘いだった。

六本木の高級賃貸マンションの設計をしていた。

「丹野君。話はついている。KUTでの設計だ。」

という話だった。

 

楽しい一週間だった。

奥様はその事も話してくれた。

「主人も本当に楽しかったみたいですよ。」

 

私の後ろで奥様が話す言葉に愛情があふれていた。

 

「主人は、『石原裕次郎の歌じゃないけど、全く悔いはないよ』と言っていっちゃいました。

 でも、ちょっと早かった……。」

 

 

本当に早すぎるよ。

別れも“出会い”とは思うけど、ちょっとつらい―――。

 

 

 

 

そう言えば

 

私の設計した建物もいくつか見ていただいたけど、

一度も褒められたことはなかったな。

雑誌を送ったときも「いい文章書いてるじゃないか。」だった。

 

 

 

:tanno: