久しぶりにしっかりテレビで競馬を見た。秋の天皇賞。
2000年、河西が膵臓ガンで死んでからあまり興味がなく、今では馬の名前もあまりわからない。
スポーツ新聞は読むが競馬欄はほとんど見なくなった。
河西は学生時代から毎週、競馬場通いをして。私からなけなしの生活費を持っていった。
印象に残っている言葉がある。
大学4年の時、部屋に戻ると製図板の上に、皺くちゃの500円札とメモが置いてあった。
忘れもしない言葉〔丹野、人までか馬までも信じられなくなった。〕。
この言葉は20前半の子どもには吐けない。
河西は死ぬまで、競馬に限らず地方競馬、競輪ボート、やり続けた。
私も、勤めた20代はさほどではなかったが30で独立してからはかなり
競馬、麻雀はやったかなという感じかな?
〔俺自身そんなに凝り性じゃない〕昭和60年前後は強烈なバブルだった。
設計は?デザインはほとんどしてなくてゴルフ、競馬、麻雀、酒だったような気がする。
不思議な事に金は入ってきた。スタッフも7、8人いて隣のビルにワンルームも借りてやっていた。
事務所を大きくしようとは思わず、いつでも三、四人のアトリエに戻す、という思いだっだ。
工費30億ぐらいはこの人数でこなせるはずの思い。〔竹中での体験が大きい〕
昭和が終わりバブルがはじけ平成に。
仕事は無い。スタッフは3人。コンペやろう。。高野が、京阪奈、中原中也記念館、を担当
仙台文学館を私がやった。〔年一個のペース〕。全て落選。
これで万事休す。
事務所にも家にも金がない。
妻曰く『学資保険解約する?』『ちょっと、それは無いなー』
銀行に借りる事に。 ハンコ押せば金が入る。私の性格的に大変な武器を手に入れた事になる。
どんどん借金が増えていく。
妻曰く『金も無いのによく飲めるねー』。だけで他は何も言わなかった。
時を同じくして
住まいが立ち退きを言われ、都市デザイン主催の吉祥寺のコーポラに申し込む。
〔金はいろいろあって都合つけた〕
アーモンドアイ、直線400メートル馬なりでスーと先頭に。強い、強い。
続く!
:tanno: